何の気なしに出る言葉が本心

思ったことをひたすらに書く。それだけ。

誰のために

引っ越した。

せっかくきれいなところに移ったのだからと、ここ最近は整理整頓に気を付けている。

 

ふとここで思うことがある。

「誰のために」整理整頓するのだろうか。

 

自分のため?

いや、むしろ自分は雑然としていた方が手の届くところによく使うものが配置されるし、なにより生活感があるから好きだ。

 

人のため?

いや、誰を呼ぶんだよって。誰に見せるんだって。

居住空間を人に見せびらかすような趣味はない。

 

そもそも、身の回りのことって誰かのためにって思ってやる方が自意識過剰だし、誰かのためにやるという動機そのものが不純で傲慢だ。

目的を外部化した時点で善ではない。

 

自分のことといえば、髪の毛だってそうだ。

これまで髪の毛の手入れなんて全く興味のなかった自分が、最近はやたらと気を配っている。絡まっていないか、ぼさぼさじゃないか、不自然ではないか、サラサラか…。

それこそ、何のためにやってるんだか。

 

やる気が失せちゃうよ。

 

でも、やらないとダメなんだろうね。

やる理由を作るために、自分でも知らない誰かを想定しているのかもしれない。

 

仕方ない、やりますか。

まだ見ぬ「誰かさん」のために。

 

 

 

意味を持つとき

行間が意味を持つとき、それは当事者しか意識できない。

 

例として、一組の男女を考える。

ある日、この二人は離れ離れになる。そこでお互いにメッセージを送りあった。

女は「これからもよろしく。友達として…。」というメッセージを送った。

 

この「…。」は、本来何の意味も持たない。

会話で言えば語尾を省略した形だ。語尾を省略するなんて特段気にも留めないだろう。

 

だけど、男が女に密かに思いをいだいていた時。

この行間は意味を持つ。

 

行間を読むこと、それは現実を見るときなんだ。

順応すること

経験者っているじゃないですか。

たとえば、ある活動で全国行ったとか、そういう経験のある人。

 

そういう人に限って、新たな環境にケチつける傾向があるように感じる。

思うに、自分がかつて経験した環境とのギャップがあるんだろうね。

 

でも、だからと言って自分の価値観を押し付けることは果たして正しいことだろうか。

 

ところ変われば空気も変わる。そこにはそこに流れる空気がある。

その空気の集合体が、自分たちの生きる社会なのだろう。

それを受け入れること。気に入らなかったら出ていけばいい。もしそうなっても誰も止めない。そういうものだとわかっているから。

 

いろんな空気を吸って、自分が心地よいと思う空気を探すこと。

それができないで、一人前するのは早くはなかろうか。

 

さて、おいしい空気を吸いに行こう。