ほんとうのじぶんって
よく耳にすること。
「本当の自分で人と接しましょう」
どうなんでしょうね。
車輪の回転をよくするために自転車に油をさすように、人間もありのままじゃ生きられない。絶対に。
人間は社会的な生き物。
仲のいい人だけで生きられるならいいかもしれない。けど、社会という枠組みの中で生きる以上、絶対に本当の自分と社会を介する「なにか」が必要なんだよね。
そもそも、最初から仲のいい人なんてまずいないし、仲のいい人であっても初対面じゃ絶対素をさらせるはずがない。
そりゃあ、素をさらけ出せたら楽でしょ。何も気負わず、何も背負わず。
ベルトを無理にきつく縛って、スタイルがいい「ふり」をするよりも、ベルトさえない方がしっかり息ができる。
だけど、
それじゃ生きていけない。素をさらけ出したくても、そっちのほうが今は生きづらいってわかっているから、素なんてさらせない。
傷つきたくないから、はりぼてでもいいから「つながり」がほしいから。
だから今日も、素の自分を隠すんだよね、
自分も。
わらうこと
ありきたりかもしれない
けど最近よく痛感すること
最後に心から「笑いたい」と思って笑ったのはいつだろうね
空に思うこと
空を撮ることが好き。
空はさえぎるものがない。ただただ、広々とした空間がそこに広がっているだけだ。
そんな空をとるのが好きで、自分の思うとおりに撮れたらもちろんうれしい。
だけど、ただ広い空を撮るよりも、雑然とした、たとえばビルの合間からちらりと見えるような風景をとる方がもっと好きなんだよね。
空の写真に、自分が生きる世界を投影していることに気付いたのは最近のこと。
空は理想、さえぎる障害物は現実。
空にはただ広い空間があるだけ。すべてを包み込んでくれるような、無限に広い空間。それゆえ、”具体”がない。
だけど、障害物はビルだとか電信柱だとか、どれも”具体”がある。
自分たちは生きる中で、誰しも理想を持っている。
ああしたい、こうしたい、あんなこと、こんなことできたら・・・。
けれど、理想は具体性を持っても、それは実は目先のものに過ぎず、実は本質でないことに気付く。自分が思う以上に、自分の理想はでっかいもの、だけどその実態が何なのか気づかない。
けれど、理想を阻むものはなぜかはっきり見える。
それが「現実」なんだと。
はっきりとはわからない。
だけど確かな”理想”にこいこがれながら、今日も空を撮る。